【弁護士による判例解説】どのような錯誤があれば遺産分協議の取消しが出来るか。

代表弁護士 多湖 翔 (たこ つばさ)
多湖総合法律事務所
所属 / 神奈川県弁護士会 (登録番号46487)

一度、署名押印してしまった遺産分割協議書を無効にすることは原則として出来ません。遺産分割協議に限らず、契約書類にサインするということはそれだけ重い行為ですから、内容をよく読み、サインする必要があります。

しかし、過去の判例の中には、誤解から行った遺産分割協議を無効に出来たケースがあります。それを「錯誤取消(改正民法95条1項2号、2項)」といいます。

改正民法95条の錯誤取消の要件としては「表意者が法律行為の基礎とした事情についてのその認識が真実に反する錯誤」で「その事情が法律行為の基礎とされていることが表示されていたとき」、「その錯誤が法律行為の目的及び取引上の社会通念に照らして重要なものであるとき」「錯誤につき重過失がないこと」です。

例えば、自分に有利な遺言が残されていたにも関わらず、その存在自体隠されていた場合などは問題なく錯誤が認められる典型的な例でしょう。

他にも、遺言書自体は読んでいても、他の相続人等から遺産や税制について、事実と異なる具体的かつ詳細な説明をされ、遺言書による相続よりも他の相続人が示した遺産分割案が有利であると信じて応じた場合には、錯誤取消が認められています。

以下では、錯誤が認められる事案について、具体的なイメージを持っていただくために、そのような裁判例を一つご紹介します。

1 東京地方裁判所平成11年1月22日判決

⑴ 事案の概要

被相続人はかなりの資産家であり、菓子類の販売及びゴルフ用品販売等の事業を幅広く営んでいました。その相続人は子ら四名ですが、原告ら三名と被告一名に分かれて本訴訟を争いました。

原告ら三名は大学卒業後、被相続人の会社の役員に就任し、それぞれ被相続人の事業を承継していましたが、一方の被告は大学卒業後、結婚して三人の子どもを設けたのち、協議離婚し、未成年子三名を養育していたところ、被相続人が亡くなる二か月ほど前に、被相続人が経営していたビル会社の取締役に就任していました。

被相続人は亡くなる9年前に公正証書遺言を残していましたが、原告らは遺言書の存在と内容を互いに知らせていたにも関わらず、被告には存在さえ知らせませんでした。

被告が公正証書遺言の存在を知ったのは、亡くなって10か月の相続税の申告期限である9月24日の1か月前の時期でした。原告らと税理士は被相続人が亡くなってから、被告に対して、何種類もの遺産分割協議案を作成し、幾度も被告に示していたが、被告はいずれも不平等すぎる内容に納得できないと返答していました。

そして、被告は、相続税の申告期限が迫った9月12日に知人からの紹介で弁護士に遺産分割協議の交渉を依頼しました。

これに対して、原告らは相続税申告期限の前日の9月23日に、兄弟の中でも特に仲のよかった原告の一人を被告のもとに派遣して、税理士が作成し、原告らに非常に有利な内容の署名押印済みの遺産分割協議書を携えて、被告宅で被告を待ち伏せました。

被告が午後11時頃に帰宅すると、仲の良かった原告の一人が待ち構えていたので、被告は近くのファミリーレストランに出かけると、「最終案」と記載された遺産分割協議書を示され、遺言書にしたがった分割では自分が460万円の分割しか受けられないと専門家である税理士も述べていること、相続税の申告期限を過ぎれば、数千万円の無申告加算税が課せられることなどを伝えられました。

被告はこれを逃せば多大な損失を被ると繰り返し説得されて、遺産分割協議書に署名押印をしてしまいました。その後、この時作成された遺産分割書に基づく移転登記等を求めたのが本訴訟です。

⑵ 裁判所の判断

裁判所は、被相続人には19億5000万円の遺産があり、遺言書に記載がある財産は12億1000万円に過ぎないことを認定し、被相続人が残した遺言書に従って遺産分割をして被告が相続する額と、実際に被告が署名押印した遺産分割協議書による被告の相続額を比較しました。

裁判所は法律にしたがって相続した場合には被告は4億9000万円取得できるにも関わらず、実際の遺産分割協議書では4200万円の相続となったと認定しました。

また、その原因は、被告が遺産分割に応じたのは原告らが遺言書に記載されていない財産についても、遺言書に記載されていた財産の比率でしか相続できず、被告は僅かな遺産しか取得できないと原告らから誤信させられ、遺言に従えば自らは460万円しか取得できないことなどと税理士が述べていると伝えられたことを認定し、そのために遺産分割に詳しくない被告が誤信に陥ったものだとして、錯誤無効(改正前民法95条)を認めました。

⑶ 判例の考察

法律にしたがって相続した場合には4億9000万円取得できるにも関わらず、遺産分割協議書によって4200万円の相続となっており、10倍以上の開きがあります。相続を平等にして欲しいと望んでいる場合でこの差を容認する方が通常は存在しないであろうことは誰の目にも明らかです。

また、税金や遺産の評価に関する他の相続人の働きかけた内容は事実に反しており、被告に弁護士が就いているにも関わらず、自宅で待ち伏せるなどの方法で、深夜に署名押印を迫っている点でも、原告らのやり方はかなり悪質です。裁判例の結論は相当でしょう。

今回のようなケースが発生したのは、被相続人が作成した遺言書が9年も前のもので、その作成後に蓄財された遺産がたくさんあった(全体の44パーセント)というのが恐らく原因でしょう。遺言書に不備がない場合は、基本的に遺留分割合しか請求できません。

しかし、遺言書で記載されていない財産が多額にある場合には、その残余の遺産を誰に帰属させるかの際には、法定相続分に従いかつ、生前贈与等を加味した相続分の計算(民法903条1項)が出来るため、その多くを被告が相続することが出来ました。

そのため、結果的に、被告が望んでいた法定相続分に近い相続となり、原告らが想定していた遺産分割が出来なくなり、このような争いになったのだと思われます。

⑷ 立証の重要性

親族間でのやり取りというのは大半の方が証拠を残していません。約束も説明も立証するのは非常に難しいです。そのため、錯誤が認められるかどうかというのは法理論ももちろんですが、証拠で立証できるかというところで難しいことが多いです。

かといって、親族間で録音というのはあとの関係を考えれば、ハードルが高いと思います。

メールやラインというのも証拠上、重要になりますから、疑問を感じた部分の説明などは、これらの方法を用いるとよいと思います。自分が、特に関心があることや絶対に守ってほしいという部分など、大事なやり取りについては、丁寧に証拠に残すことが重要です。

以上

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